第6部 第6章|意識場とは何か?意識という透明な眼鏡を通して、時間・空間・物質・宇宙を見つめ直す

意識という透明な場の中に、観察者と地球、銀河、時間・空間・物質世界が現れる大意識場理論のイメージ

目次 1.プロローグ|私たちは生涯、一度も意識の外に出たことがない 2.意識は最も近くにあるからこそ、最も見えにくい 3.大気の中で空気を忘れるように、私たちは意識場の中で意識を忘れる 4.目を閉じてみよう|その巨大な世界はどこに現れるのか? 5.目を開けてみよう|現実はどこで経験されるのか? 6.岩を一つ持ってこよう|「これは物質だ」と言うのは誰か? 7.80億人から最後の一人まで消してみたとき、何が残るのか? 8.意識より先にあったという宇宙は、どこにあったのか? 9.朝、目覚めてから再び眠るまで、何が私とともにあるのか? 10.では、意識場とは何か? 11.エピローグ|宇宙は意識の外にあったことがあるのか? プロローグ|私たちは生涯、一度も意識の外に出たことがない 朝、目を覚ます。部屋が見え、窓の外の空が見え、人の声が聞こえる。今日すべきことを考え、身体を動かす。一日のうちに多くの人と出会い、さまざまな物を見て、聞いて、触れ、判断する。そして夜になれば眠り、翌朝また目を覚ます。こうして一日、一か月、一年が過ぎ、やがて一生となる。 そのすべての瞬間に、一度も欠けたことのないものがある。意識である。 私たちは、意識という透明な眼鏡をかけて生まれた人に似ている。あまりにも透明であるため、眼鏡そのものは見えない。山も海も人も星も、私たちにはつねにその眼鏡を通して現れる。地球が太陽の周りを回り、太陽系が銀河の中にあり、宇宙に無数の銀河があることも、観測と学習を通して意識のうちで知られる。 では、宇宙だけはこの透明な眼鏡の外にあると断言できるだろうか。天奉アーカイブの大意識場理論は、この問いから始まる。「意識場とは何か」という問いは、私たちが知る世界全体を根底から見つめ直すよう求める。 意識場とは何かという問いの再定義 1. 意識は最も近くにあるからこそ、最も見えにくい 人は誰もが意識とともに生きる。子どもも老人も意識し、科学者は意識を通して研究し、哲学者は意識を通して考え、宗教者は意識を通して神と存在を問う。それにもかかわらず、私たちは意識そのものをほとんど意識しない。 コンタクトレンズを考えてみよう。装着した人は一日中レンズを見つめるのではなく、レンズを通して世界を見る。意識は、それよりもさらに根源的な透明の眼鏡なのかもしれない。色も音も痛みも愛も意識され、過去は記憶され、未来は想像される。 私たちは意識を通して目覚め、経験し、考え、判断し、眠り、翌日また世界に出会う。にもかかわらず、それらを可能にする意識より、意識のうちに現れる世界のほうを先に「現実」と呼んできたのではないだろうか。 色が見えるとき、私たちは色そのものに注意を向け、色が「意識されている」という事実を忘れる。音を聞くときには旋律や声に注意を向け、音が経験として現れている場を見落とす。痛み、喜び、悲しみ、愛も同じである。それらは内容としては大きく異なるが、すべて「意識される」という一点を共有している。 過去はすでに過ぎ去っているが、記憶として現在の意識に現れる。未来はまだ到来していないが、期待や不安、計画として現在の意識に現れる。したがって意識は、目の前の感覚だけを受け取る狭い容器ではない。過去と未来、現実と可能性、自分と他者を一つの経験の地平に置く働きでもある。 2. 大気の中で空気を忘れるように、私たちは意識場の中で意識を忘れる 私たちは大気圏の中で生きている。空気なしには生きられないのに、ふだんは空気をほとんど考えない。いつもそこにあるからである。天奉アーカイブのいう意識場も、この比喩から近づくことができる。 ただし、意識場が宇宙のどこかに浮かぶもう一つの物理的な層だという意味ではない。大気圏はあくまで比喩である。大意識場理論における意識場とは、時間・空間・物質を含め、私たちが世界として経験するすべてが現れうる、より根源的な場を指す。 通常、私たちは意識が物質世界の中にあると考える。しかし大意識場理論は逆に問う。意識が物質世界の中にあるのか。それとも、私たちが物質と呼ぶ経験世界が、意識という大きな包みの中にあるのか。私たちが直接出会う物質は、つねに意識のうちで経験される物質だからである。 意識場は、約80億の個別意識を結ぶ通信網だけを意味しない。時間・空間・物質と、それを経験する個別意識のすべてを包括する、より根源的な基盤の可能性を問う概念である。 巨大な布を広げ、その上に山、海、都市、人間が置かれている場面を想像してもよい。しかし、ここでも布を物理的な物体として受け取ってはならない。比喩が示すのは、個々の経験や物体が互いに孤立して成立するのではなく、それらが現れうる共通の根拠があるのではないか、という問いである。 大気圏が山と海と都市と人間を同時に包むように、意識場は時間、空間、物質、そしてそれらを経験する個別意識までを含むのではないか。これは観測済みの物理的「場」を追加する主張ではない。私たちが世界を経験し、知り、意味づけることの成立条件を問う概念的な枠組みである。 3. 目を閉じてみよう|その巨大な世界はどこに現れるのか? しばらく目を閉じてみよう。目の前の部屋は見えなくなる。しかし幼い頃に暮らした家、愛した人、亡くなった両親の顔は記憶の中に現れうる。ソウル、日本、アメリカを思い浮かべ、さらに地球を離れて太陽系、銀河、宇宙まで想像できる。 目は閉じており、銀河の光が今まさに網膜に届いたわけでもない。それでも意識のうちには宇宙さえ現れる。過去も現在も、まだ起きていない未来も現れうる。 この世界は小さな頭蓋骨の中へ物理的に入り込んだのではない。意識のうちで経験として展開した。目を閉じても世界が現れるという事実は、「意識場とは何か」を理解する最初の手がかりとなる。 もう一度、思考実験をゆっくり進めてみよう。幼い日の家の門、部屋の窓、食卓の位置を思い出す。そこに家族の顔を置き、声や表情を思い浮かべる。次に視野を広げ、住んでいた町、ソウル、日本、アメリカ、地球へと移る。地球を宇宙空間から眺めるように想像し、太陽系、銀河、さらにその外側へ進む。 その間、物理的な家や都市や地球が頭の中へ縮小されて入ってきたわけではない。それでも距離と広がりがあり、近いものと遠いものがあり、過去の人物と現在の自分が同じ経験の中に現れる。意識は物理的な大きさによって測れない仕方で、巨大な世界を経験として開く。 もちろん、思い浮かべた宇宙と、天文学が精密な観測によって記述する宇宙を同一視することはできない。この思考実験が示すのは、想像だけで物理的宇宙を証明できるということではない。世界が「私に現れる」という出来事が、意識を離れては成立しないという最小限の事実である。 4. 目を開けてみよう|現実はどこで経験されるのか? 目を開ければ、机、窓、建物、山が見える。「先ほどのものは想像だが、これは現実だ」と私たちは言う。その通りである。現実は思いどおりには変わらず、他者と共有され、規則性と持続性をもつ。 しかし、その現実を今経験しているものは何だろう。光は目に入り、感覚情報は神経信号へ変換される。けれども私が経験するのは信号そのものではない。青空を見、音楽を聴き、リンゴの甘さを味わい、愛する人の顔に意味を見いだす。 目を閉じた世界と開いた世界は異なるが、共通点が一つある。どちらも私にとっては、意識を通してのみ世界となる。意識とは何か、また物質世界といかなる関係をもつのかは、現代哲学においても中心的な問題であり続けている。 目の前にリンゴがあるとしよう。外部のリンゴそのものが私の中へ入るのではない。表面で反射した光が網膜と神経系を経て処理される。それでも私は波長や電気信号ではなく、赤く丸い一個のリンゴを見る。では、経験されているこの「リンゴ」は、どこに現れたのだろうか。 夢の中でも私はリンゴを見て、手に取り、かじることができる。夢の中では「私」と「リンゴ」が内と外に分かれているように経験される。しかし目覚めれば、私とリンゴとその間の空間全体が、一つの意識のうちに現れた経験世界だったと分かる。 ならば覚醒した現実でも、「外にある」と経験されるリンゴが、より大きな意識場のうちで私から分離して現れている可能性を問えないだろうか。これは脳科学が証明した結論ではない。脳科学の説明が届く地点と、大意識場理論の哲学的問いが出会う場所である。 天奉の大意識場理論は、主観と客観が分かれているように現れる構造を、「創造の演出構造」である可能性として考察する。これは確立された物理学理論ではなく、現実と意識の関係を再検討するための哲学的仮説・概念的枠組みである。 リンゴを一口かじれば、物理的な果肉は口の中へ入る。舌と鼻と神経系は刺激を受ける。しかし、甘さ、酸味、香り、みずみずしさ、歯ごたえとして私が味わうものは、経験として意識のうちに現れる。リンゴそのものが「私は赤い」「私は甘い」「私はおいしい」と知っているわけではない。 ここに意識研究の難問がある。光の波長、化学物質、受容器、神経活動についての説明がどれほど精密になっても、なぜそれが赤さや甘さという主観的経験になるのかという問いは残る。大意識場理論は、この説明の空白をただちに埋めたと主張するのではない。むしろ、その空白を出発点として、意識を単なる付随物とみなしてよいのかを問う。 夢と現実の違いも保持しなければならない。夢は個人的で不安定であり、目覚めた現実は他者と共有され、予測可能な法則をもつ。したがって「どちらも意識に現れる」ことは、「どちらも同じ存在論的地位をもつ」ことを意味しない。共通しているのは、どちらも経験としては意識を通してのみ与えられる、という点である。 なぜ現実は私と物を分離した存在として経験させるのか。なぜリンゴは「あそこ」にあり、私は「ここ」にいるのか。なぜ光、感覚器官、神経信号という過程を経て世界を経験するのか。一つの意識場のうちで経験が展開しながら、その内部では主体と客体が分かれて現れるという可能性を、大意識場理論は「創造の演出構造」という言葉で探究する。 5. … Read more